島袋(2020)へのコメント

島袋海理,2020,「性的マイノリティに対する文部科学省の支援策の論理:性別違和と同性愛の相違点に着目して」『ジェンダー研究』お茶の水女子大学ジェンダー研究所,23: 165-83.

 

コメント

 

 165頁註1、「性別違和」の定義。「自身の身体」という要素を定義文に入れたのはどういう理由があるのだろうか。単に「割り当てられた性別」への違和感というだけの定義ではダメということだよね?割り当てられた性別には違和感はないけれど、身体には違和感がある、という場合を想定するということか。身体違和を割り当て性別違和と(論理上)直結させないことに意味があるのかもしれない。ただ、例えば性器など以外の身体部分に対して違和感があるという場合も過大包摂してしまうのではないかという懸念はあるが。(そういう人が実際にいるかは分からないが。※)

 ※追記:Body Integrity Identity Disorder(BIID)、Body integrity dysphoria(BID)というのがあるっぽいけど、あんまりエビデンス蓄積してないな。性別違和と関連して語られることがあるみたいだが、トランスジェンダーフォビックな関連付け方もあり得るので要注意。

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 小山静子の参照部分(167頁)、おそらく小山の言葉遣いをそのまま使っているのだと思うが、男女の恋愛・性愛関係を指して「男女の関係」と言うのはあまり良くない。今回の場合は、文脈から恋愛・性愛に限った話だと分かっているから、明らかな誤記とは言えないが。

 戦後から現在に至るまでの純潔教育性教育において、同性愛がどのように扱われてきたか、というのはとても重要な研究テーマだよね。歴史学者・史料研究者とも連携してやっていく必要がある。また、現在の教育現場の性教育の調査も必要。(学校保健委員会の資料分析とか面白くね?と個人的に思っているのだが。もう誰かやってる?)

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 「通知と周知資料とでは厳密にいえば異なる性質を持つが、先行研究では性質の違いを念頭に置いた分析はされていない。本研究もこれに則り、これら資料の性質の違いを考慮せずに分析する。」(170頁)

 「先行研究でやってないからそれに則ります」だけではダメで、それだとこの部分を書く意味もない。「厳密に言えば異なる性質を持つけど、私が今回したい分析(の目的)においてはそれを考慮する必要がない(考慮してもあまり分析に差異・影響がない)から、考慮しません」とか、「先行研究に合わせることで本研究と先行研究とで比較できるようにしたいから則ります」とかなら分かる。

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 4章1節1項と2項は、それぞれはとてもシャープな分析なのだが、1項の「”他の児童・生徒への配慮”という観点」と、2項の「個別的支援」(=すべての児童・生徒を巻き込んだジェンダー・フリー対応の忌避)の関係性についての記述が引っかかる。

 「この”他の生徒・児童への配慮”という観点が、一連の支援事例を当該児童・生徒に対する個別的な支援へと水路づける論理となっているのではないか。……ここに、”一連の支援事例を決定する際には、他の児童・生徒への配慮と均衡を取らなければならない”という論理が成立している。」(174頁)

 1項で言う「他の児童・生徒への配慮」とは、表1を見る限り、更衣室、トイレ、宿泊部屋など、具体的に他の児童・生徒が何らかの不利益をうけるようなものを指しているように見える。(その不利益をどう概念化するかは別途重要な点だが。子ども個人の性的羞恥心だとか?)一方で、2項の分析事例では、他の児童・生徒への配慮のためというよりも、まさにジェンダー・フリーを忌避し、ジェンダー二元コードを保持・再生産したい行政管理側の意向が反映されているように見える。1項と2項の分析を関係づけるときに、「他の児童・生徒への配慮」という観点でまとめてしまうのは、雑・無理やりな気がする。あるいはむしろ、1項での「他の児童・生徒への配慮」という点も、子ども個人の不利益のためではなく、ジェンダー/セクシュアル秩序を守るという行政管理側の意向のせいだ、という方向でのまとめ方のほうが私にはまだもっともらしく感じる。

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 「医師の診断を必須としていないにもかかわらず、なお医療化概念である”性同一性障害”が一貫して採用されているのはなぜだろうか。」(175頁)

 ”医療化の効用”として、性別違和を持つ子供たちの受容や「免責」があるから、という理由は妥当だと思う。そしてそれを前提とした上で、行政管理側の都合としては、以下のような線引き問題を表面化させないために、医療化概念を残存させているという理由もあるのでは。「わがまま」を認めるのとは違うという体裁を保つために、病名を使い続ける。

 医学的診断を必須基準にしなくなったことによって、子どもたちのうち、誰を叱り・指導し、誰を支援すればよいのか、という線引きの問題が新たに発生しているのではないか。同じような「問題行動」をしている子どもでも、「発達障碍」「性同一性障碍」という概念枠組みで認識されれば免責され支援され、そうでなければ指導される、という。そうした「本人のニーズ主張の語りだけでは区別がつきません」という教員の悩み・戸惑いは、教育現場への研修・講演などをしている人々(遠藤まめたさんとか、ASTAとか)に調査してみると結構出てくるのではと思う。

 上記のような行政管理側の都合という視点を踏まえると、6章の考察部分(179頁)は同意しかねる。もちろん、文部科学省に教育現場での支援を進めるという意向・期待があったかもしれないが、その指摘がそれまでの分析から導出できるのか、というと、できないのではと思う。また、文科省を善意的に見すぎではないか。一般に政治行政組織の振る舞いというのは、複数の層の意図があると想定したほうが妥当であり、「文部科学省による教育的配慮」(175頁)以外には何か意向がないのか、という点は検討する価値があると思う。

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 178頁、2017年報告書の引用では「個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導」となっているところを、それを受けた地の文では「他の児童・生徒」としている点が気になる。私は、「個々の子どもごとに発達段階は異なるのだから、性的マイノリティみたいな”上級編”を同時一斉に学習指導するのはいかがなものか」という意味に解釈した。ここには、性的マイノリティ当事者以外の「他の」子どもを引き合いに出しているというより、たとえ当事者であってもそれを(肯定・容認的に)学習指導させたくないという考えがあるのでは。(まだ早い、まだ確定させたくない、子ども時期だったらまだ「正常な側」に転向できるのでは、など。)

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 「”同性愛”の指導内容への組み込みをめぐる議論において文部科学省は、……『性的マイノリティ』あるいは『LGBT』の問題という表現を採用している。したがって、ここでは文部科学省が『性的マイノリティ』『LGBT』という表現を、同性愛以外のカテゴリーを含んだ包括的な意味で使っていないと考えるのが妥当だろう。」(178-179頁)

 同意できない。あるいは記述不足である。同性愛(者)について言及する際になぜ「性的マイノリティ」「LGBT」という包括的な語を使っているのか、について筆者(島袋さん)が説明しなければ、文字通りの意味として解釈する(LGBT全体について言及していると読む)のが通常だろう。

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 2017年答弁記録における「LGBTに対する科学的知見」とはどういうものか、ということを分析・解釈せずに、ここで言われている科学的知見とは医療的な知見のことだとか、文部科学省が「同性愛の問題を医療化の論理にもとづいて検討している」(179頁)とかを述べることはできないと思う。様々な科学的知見が医療化の論理に利用されてきたのは事実だが、医療以外にも科学的知見はあり得るので。

 そことの関連で、6章の考察部分(180頁)もあまりピンと来なかった。まあでも筆者自身もその後に補論書いてるみたいだし。https://twitter.com/KairiShimabukur/status/1336649934745944066

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 「性的マイノリティは一つのカテゴリーのようにみえるが、そのなかには医療化の論理を適用しうるカテゴリー群(性別違和など)と脱医療化したカテゴリー群(同性愛など)が併存している。」(180頁)

 この「医療化の論理を適用しうるカテゴリー群」と「脱医療化したカテゴリー群」の対置はよく分からない。(性別違和と同性愛とで、現時点では医療化されている程度が異なるよね、という指摘なら分かるが。)同性愛など脱医療化したカテゴリーも、医療化の論理を「適用しうる」だろう。同性愛について、「もう既に脱医療化した」という認識よりも、「今の時点で医療化を免れている」という認識のほうが私はしっくりくる。将来、医学的・科学的発見が新たにあったりして言説状況が変われば、再医療化することも十分あり得るだろうと私は思っている。(ConradとSchneiderによる、同性愛を「治療」できる医学的手法が当時に発見されていたら脱医療化できなかっただろう、という指摘に私は同意する。)そのように、「医療化と脱医療化の力関係」(180頁)は、常に医療化しようとする力学と、当事者側のそれに抵抗したり迎合したりする力学との、常に変動する力関係(緊張/協力関係)を細やかに丁寧に見ていかないといけないと思う。

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 同性愛への「支援」策という視点だけでは見えなくなるもの。

 府中青年の家事件の「男女別室ルール」の論理から現在にまで続く、ジェンダーセクシュアリティ秩序についての規範・管理の問題は欠けてはならないだろう。異性愛・男女二元制を基盤としたこの秩序における同性愛の抹消・排除。トランスフォビア言説とも繋がる。

 つまり、トランスジェンダー支援策に関して(個別支援によって)男女二元制を保持することで、異性愛主義も保持され、また、(異性愛主義を解体するような施策の不在によって)異性愛主義を保持することで、男女二元制も保持される、という相互関係。

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全体の感想

 批判点ばかり書いたが、アーカイブ公開が消えてたりする資料も含めきちんと読んで分析する、というのは重要。参考文献も、私の知らないものがたくさんあったし、勉強になった。発達障碍とか視覚障碍とか部落とか、他のマイノリティについての研究(しかも子ども・学校教育の領域の研究)をきちんと見渡しているというのはとても良い。