マサキチトセ「お詫びとご報告」 批評

 

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1575559616930664449

https://ja.gimmeaqueereye.org/apology-to-a

 

※本文に入る前の注釈。

 マサキチトセさんの声明公開時点、つまり、けむしのこの記事の執筆開始時から、記事公開まで、一年ほど掛けている。記事の内容のほとんどは数週間で書き上げているが、加筆修正含め公開に至るまでにかなり期間が空いているということを承知願いたい。それゆえに、その間にマサキチトセさんは改名し現「瀬戸マサキ」になっているし、ツイッターも退会している*ので上記ツイートURLはリンク切れになっている。また以下本文中の自衛隊内の性加害問題についても、当時の報道状況文脈においてである、と考慮して読んでほしい。
 (*訂正追記。退会ではなく鍵アカになって使用停止しているようだ。*12/6再追記。鍵を開けて利用再開しているが、いつからか不明。)

けむしのコメント

『今後の私の執筆および講演活動に関しては、A氏との間で、私が何らかの声明文を公表した上で継続するという条件に合意いたしました。』
 この部分、加害者の社会活動や営利労働一般について被害者(だけ)が継続/中断云々を要望・審理できる、みたいな読み方だと私は引っかかるが、多分そうではなくて、マサキチトセさんの活動の内容上(権利や自律や加害について取り扱う)、オーディエンスないしステークホルダーに何も公表せずに続けるのはどうなの、という問いがあって、こういう「合意」が出てきたのだろうと(も)読める。そしてその問いは、別に被害者でなくても(その事実を知る第三者でも)問題提起できることだと私は思う。(被害情報に言及することになるので、当然被害者の意思・了承は関係してくるが。)

 

 そして、『そうしたA氏の寛大な申し出に感謝し、』というのが引っかかるなあ。
 「寛大な」ということは、「普通の」ないし「より厳しい」状態がどこかに想定されているはずである。例えば、「本来はより厳しい『条件』であるはず/が一般的であるのに、」とか「本来はより厳しい『条件』であるべき(と加害者自身も思う)なのに、」といった想定である。
 今回のような件で言えば、例えば、加害を一つでもした人は人権についての啓発的・教育的活動をする資格があるのか/ないのか、という問いはまああり得て、Aさんが「私は被害者の個人的な思いとして活動を続けてほしくない」とか、あるいは被害者としてでなく一般的に(倫理的に)「活動を続けるべきでない」という意向を出すことはあり得る。で、そのような「より厳しい」意向がはたして一般的と想定できるか、というと、よく分からん(YESとは言えないと私は思う)。現在の世論的には意見が分かれるのではないかと思うし、べき論から言っても、被害者の思いとしてはともかく、倫理的問いの結論としては、私の採る思想的スタンスからすれば、厳しすぎる(正義の実現/不正義の減滅に向けてかえって逆効果になる)と私は思う。
 また、「本来はより厳しいはず」という想定が一般的にできなくても、「本来はより厳しくあるべきである」と加害者一人だけでも思っていれば、「寛大」という評は成立し得る。ただ、ここで一つの問いが生じる。なぜ「べきである」と自身で思っておきながら、そのような『寛大な申し出』に乗ったのか、という点である。これへの答えは様々に考えられる。人間の様々な信念ないし生活の様々な利害があるなかで、「より厳しいこの条件が妥当だ」と一方で思いつつも、相手の『寛大な申し出』を受ける、ということは不自然でなくあり得る。(そのような「矛盾・葛藤」自体が不自然でない。)そして、その答えのなかには、正当な(問題のない・責める点のない)答えもあるだろう。
 または、次のような場合もあり得る。例えば、被害者が「できれば活動をやめてほしい」と望むが、加害者が「できれば続けたい」と望み、そして和解プロセスにおいて被害者が「まあいいよ」と承諾した場合など。このとき、「寛大な」という評が成立するための「より厳しい状態」というのは、被害者の最初の意向のことである。そこを参照して、「本来はそうであるはず」「本来はそうであるべき(被害者の意向に沿うべき)」という想定が成立する。この場合、「寛大な」という評は、被害者の最終的合意内容だけにかかるのではなく、譲歩・承諾という振る舞いのほうにもかかる。しかし、その場合の振る舞いを「申し出」とは言わないだろう。(加害者の出した意向に同意したという形なのだから。)ゆえに、上のような場合は今回の件では当てはまらない(除外して考えて良い)だろう。
 さて、上記で、「寛大な」という評がそもそも成立するかどうか(どういう場合に成立するか)をみてきた。私が引っかかっているのは、「(被害者の)寛大な~に感謝し、」という文言を加害者のステイトメントで使うことが、うーんどうなんやろうか、ちょっと問題あるんやないかという違和感である。そうした文言を使うことを正当化できる場合があるかどうかの検討の前段階として、上記で場合分けを整理したつもりである。
 被害者の意向に対して「寛大な」のような形容詞を付けることは、被害者の意向一般について、「寛大/そうでない」みたいな価値尺度を持ち込んでしまうことになりはしないだろうか。ある被害者の特定の意向を「寛大な」と形容することで、他の被害者の意向(あるいは被害者の他のあり得た意向)を「寛大でない」と見なすことに協力してしまうのではないか。私は、被害者の意向というのはそういうものではなく、それぞれの被害者がしたいこと・してほしいこと/したくないこと・してほしくないことをただ望むだけ、という感じに捉えているのだが。そして、被害者の意向一般について「寛大/そうでない」という価値尺度が持ち込まれることは、被害者(の意向)へのjudgingという点に関して、弊害を招くのではないか。今現在の社会の加害/被害言説において、加害者擁護/被害者非難victim blamingの風向きの中で、「厳しすぎる」「いき過ぎ」といった評価のほうが(まだ)多いと私は見ている。加害/被害対応の評価の際に、「甘い/そうでない」という価値尺度よりも、「寛大である/そうでない」という価値尺度のほうがしばしば使われているのではないか。今現在の(日本の)私たちの社会においては、「甘く」してはならないという価値よりも、「寛大」であるほうが良いという価値のほうが優勢なのではないか。
 ※自衛隊で性加害を受けた五ノ井さんの振る舞い(特に、彼女が加害者の実名を公表しないこと)についての世論もこのとき見聞きしていたので、タイミング的に私の思考にちょっと影響しているかも。

 今回の件の和解プロセスの実態は第三者にはよく分からない。詳細に公に明らかにするべきとも思わない。ただ、上記のような懸念に基づいた批判提起をしておき、かつ、その批判的検討(そうした文言を使うことを正当化できる場合があるかどうかの検討)が人々によってなされることは、意義があることだと私は思う。そうした批判において、第三者でしかない者が事例に対してある程度の推測を含めあれこれ述べること(私が上でやったようなこと)は、ある種の問題性を含みつつも、一定程度までは正当化できるだろうと私は思う。そしてもちろん、その批判的検討の射程は、今回の事例に限ってではなく、加害/被害問題一般に対して意義を持つのである。
 マサキチトセさん当人としては『私からは、この文書に書いた範囲の情報を除き、今後この件に関して公に発信することはありません。』と述べているし、この批判提起に対して返答がなくても、まあいいかと思っている(「応答責任」として、必ずしも返答するべきだとは思っていない)。個別事例の「検討」に対して具体詳細に応答しようとすれば事例のないし和解プロセスの詳細情報に触れざるを得ないが、当人(たち)がそれを望まないだろうし、第三者としても、そのような詳細な応答がされなくとも、上記の問題提起から人々の熟議が始まることで十分意義があると私は思うので。まあ、詳細情報を避けて何かしらコメントを返答することは不可能ではないかもしれないが、マサキチトセさんのような有名な活動者には、アンチも色々付く(既に付いている)だろうし、こういうことを材料にしてアンチが不当な動きを活発化させることを、私は望んでいない。当人にとってうまい具合にやってくれればと思う。(もちろん、批判提起を受けて、考えては欲しい。あくまで表での動きについてはということ。)

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 あと、マサキチトセさん(ほどの人)もフォーマルな文脈では「~氏」を使うのか、という発見。けむしは「氏」を使う違和感から、使用を辞めている。以下参照。

https://scrapbox.io/kemushi/%EF%BD%9E%E6%B0%8F

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 ところで、『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現があまり見慣れないので「ん?」と思う読者もいるかもしれない。そして、その言葉(でその行為を意味づけ・フレーミングすること)が妥当かどうかというのは、一般論として(今回の事例に限らず)常に問われることなのだが、ここでそれについて考えてみよう。
 例えば、「身体自律性の尊重に反する身体接触行為」のなかには、「性加害・性暴力」もあり得る。しかし、私はこの『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現が(つまり、「性加害」などと書かなかったことが)、妥当である(問題がない)と考える。というのは、「臀部に触れる」ということが、必ずしも「性的な」ことではない、そして、その行為を常に「性的なこと」に限定・還元することが、身体自由・身体自律を希求する運動の前進にとって望ましくない、と私は思うので。

 このことは、次の「論点」に【関係してしまっているが、それとは別のこと】である。
 どういうことか説明しよう。
 Aさんは『性的な行為を拒否した』とあり、マサキさんがその意思に反し・を無視して、つまり臀部を触れる行為を性的なものと見なしておこなったのか、あるいは、意思は尊重して、つまり臀部を触れる行為は、拒否された「性的な行為」にあたらないという認識で(スキンシップとして?)おこなったのか、という点は、私たち第三者が現在得られる情報からは解釈の幅・余地がある。※もちろんけむしも、現在の社会的認識として臀部が「プライベート部位」に含まれることは同意するが、臀部に触れるのが常に性的であるという意味固定化的考えは妥当でないかつ望ましくないし、マサキさんとAさんとの関係性(の中身)や、Aさんが具体的にどんな文言で「性的な行為を拒否した」のか(どんな実際の発言をマサキさんがそう表現記述したのか)が(読者の私たちには)不明であるがゆえに、後者の場合が現実に成立する可能性はあると考える。
 なおちなみに、前者後者どちらの場合にせよ、触れる前に聞いてみる・意思を確認するなど、より望ましい振る舞いはあり得たのだから、『彼の意思を軽んじて』・『尊重に欠けるものであった』といった表現は、(後者の場合でも)妥当なものになっていると思う。
 話を戻して、(複数の注釈は付けつつになるだろうが、)行為者の身体的振る舞いとしては同じことをしていても、後者よりも前者のほうがより悪い、と言ってよいだろう。
 ここで、臀部を触れる行為は必ずしも性的ではない、という(それ自体妥当な)主張は、上記の前者後者の悪さの論点に関係し、「だから『本当は・実際は』後者なんだよね、だから行為者の悪さは減るよね」という主張に利用される(機能を果たす)ことがあり得る。
 しかし、上記のけむしの「私はこの『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現が妥当であると考える。」という主張とその根拠記述は、そのような、加害者の悪さの評価を減免しようという主張ではない。「【関係してしまっているが、それとは別のこと】である」、と述べたのはそういう意味である。
 けむしの記述の、意に反する機能効果を最小限にするために、「細かい」点についてではあるが、長々と補足説明をした。

 表現の妥当性の話に戻そう。 
 また、もし、「身体自律性の侵害」と「性加害」とで、「性加害」のほうがより悪い・重いことのようにあなたのなかで響く(聞こえる)としたら、そしてそうであるがゆえに、謝罪声明文で「性加害」のほうを使うべきだと批判するのだとしたら、その批判は妥当ではない。
 なぜなら、1,上述したように、まず前提として、「身体自律性の侵害」概念のなかに「性加害」概念が包含されている、という関係である*から。2,性的な加害・性暴力と、性的ではない身体自由・自律の侵害とで、どちらがより悪い・重いなどとは一概には言えないから。そうした判断をするためには、個別具体的にそれぞれの事例を比較検討する必要がある。
 (*訂正追記。厳密に言えば、身体が関係しない性的加害というものはある。(言葉によるセクシャル・ハラスメントなど。)したがって、「性加害・性暴力」概念が完全に包含されているということではない。今回の事例が身体的接触のことなので、ついこう書いてしまった。ここでの議論文脈にはあまり影響はないと思うが、この追記にて補足訂正する。)

ーーー

 最後に、ステイトメントを、特に謝罪を批評することについて。

 (誠実な)謝罪というものは〈祈り〉に似ていると私は思う。〈祈り〉には、祈る者それぞれの自身にとっての「ほんとうさ」だけがあるのであり、原則としては、その「わたしにとって」さ、(だけ)が重要だと私は思っている。そして、祈りと同じく謝罪においても、それを他者(第三者)が「批評」する、ということにある種の傲慢さ(越権さ)があるかもしれない、という指摘はしておきたい。しかし一方で、〈祈り〉の「ほんとうさ」の批評が社会の中で起こることは、〈信仰者〉がより良い(と自身が信じる)〈祈り方〉に改良していったり、〈祈り〉の「ほんとうさ」が研ぎ澄まされていったり、という点で、意義があると思う。(私はむしろそうした批評を奨励しているところもあるかもしれない。)
 そうした〈信仰者〉たる「わたし」(たち)にとって、という側面だけでなく、それと同時に、公共社会に発信された謝罪ステイトメント(つまり、謝罪の中でも、社会問題や社会的利害に関わるもの)を私たち=公共社会が批評する、ということは、意義がある・必要だし、今の社会に足りていないと私は思っている。これは、謝罪に限らず、信念を含むあらゆるステイトメントに言えるだろうし、行政や企業やNPOだけでなく、(その内容の公共性をもって、)団体・個人の区別を問わないだろうと考えている。
 このステイトメント批評活動の構想と取り組みについて、より関心のある人はこちらへ。(まだ建設中でほとんど中身はまだないが。)

https://scrapbox.io/futari-ten/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E6%89%B9%E8%A9%95
 被害者である相手から加害者である自分へ何かしらを伝えられた時に、心底の安堵とか「寛大」とか思うことは実際にあるだろう。(自身の何かしらの「過ち」経験を思い出してみよ!あのやっと息ができる感じ。)そうした感情を実際に感じること自体を否定(やめろと要求)しても意味がないと思う。ただ、1,その気持ちの動きに乗じて筆が滑ってしまい、「ほんとうの言葉」ではない「寛大な」という(世間にあふれている)言葉を謝罪文に書いてしまったのではないか、あるいは、2,本当に「寛大」と思ったのだとしたら、そこから、その背後・基礎にあるものについて考え始めることができる。
 謝罪というものが(私にとって)ある種特別な位置にあるからこそ、みんなには、上の1,2について考えた上で、気を引き締めて書いてほしい。それには、物書き(を自認する「私たち」)が大金を貰って書く原稿とはまた違った(もしかしたらそれ以上に段違いの)気の引き締めが必要かもしれない。

黒城ゆう  イメージソングについての草記

候補曲その1 東京事変「FAIR」

 

何とも思っていない!」(太めのペンでの手書きの文字)

 

1,歌詞との関連

・黒城さん当人の年齢(12歳(設定))から、歌詞内の子供と大人の対比。その間(あわい)の少年期ももちろん目配せしているが、どちらかというと当人を「子供」枠に入れて歌詞解釈。

 

・イメージカラーの黒→闇。活動内容(寝かしつけ配信)→夜(夜更かし)。のイメージ。「月のない夜は長引くぞ 明けるまで」

 

・サビ「何とも思って居ない 眠らないのも私の勝手」 自分の人生/生活lifeの自決権を強気に謳いながらも、眠らない/眠れないことの持つ意味の暗さも示唆。(眠らない/眠れないことの理由や、眠らない/眠れないことの自傷性も含めて。)そうした暗さを背景にしておきながら、しかし傍若無人に「I don’t care.」と言って見せる。椎名林檎の歌い方を聴くに、軽く笑い飛ばすというよりも、そう言って吹き飛ばそうとする(自分にも言い聞かせる)ような感じもちょっとあるという解釈。まあここは好みによる。

 

・「酔いを醒ましたら」 当人の飲酒癖。服装も貴族っぽさのためワイングラスが似合いそうな。https://twitter.com/Andy_Melusine/status/1611739569619099649

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1611742423428005893

でも後述のhomeとの関連で、路上で瓶ごとでも良い。

 

・「何にもしないで居たい 帰らないのも私の勝手」 家に帰らないということは、ここでは単に帰宅しない(眠らない)ということだけではなく、home概念との関係性(距離感)を表している。一つには、貴族の実家(や家制度)から離脱する(離縁している)ということ。また、自分が安らげるような居場所homeを見つけあぐねているということ。つまり、ヘテロセクシズムのつくり上げるhome像ではしっくり来ず、そこから距離を取り、むしろ路上など他者との出会いの場(開かれ・曝されの空間)に留まる、という。その過程において、「スラム街(設定)」の路上を生きる彼ら/我らはhomelessであるが、homeから排除されたまま(ないしあえてそこに残ったまま)生き続けるというあり方とは別に/と同時に、その他者たちと(カップル主義的ではない)自分のhomeを新たに作っていく、というあり方も視野に入れることができる。これを踏まえると、「何にもしないで居たい」という言葉が(単なる無気力ではなく)さらに解釈できる。つまり、賃労働など、生産性で自分の価値を値踏み・値付けされたり、プライベート交遊関係で自分の存在価値をアピールしたりしなくても良い、「何にもしないで居られる」こと・場を欲している、と。で、それってhomeじゃん、と。

 

 ちなみに、「FAIR」がアルバム「スポーツ」に入っているという点もまた良い。当人のスポーティ&ストイックなイメージ。

 

2,FAIRさを、林檎を経由して、時間から重力に読み替える。

 まず曲の批評から入ろう。曲タイトルの「FAIR」をどう解釈できるか。

「疵痕ごと腐敗した残像 熟れては落下するだけさ」

「過ぎては去った時の所為」

「追い分け引き分け 兵(つわもの)または逃げ腰の残党 咲いて萎んで花と散って」

 追い分け(道の分岐点、岐路)において勝者と敗者に分かれる。しかし歌詞全体の感じや上記の引用部分を見るに、勝者になれば良い(嬉しい)という文脈ではなさそう。むしろ、勝者も敗者も、時が経てば、熟れて落下し腐敗するだけだ、という「盛者必衰」(「丸の内サディ」)的な読解ができる。

 ここで、この曲がアルバム「スポーツ」に収録されているということに着目する。(アルバムジャケットの金メダルを見るに、特に競技スポーツ。また、ブックレットでも「競技」の漢字2字が当てられている。)スポーツにはルールや評価基準があり、スポーツとFAIR(公正・公平)概念は密接に関係してくる。しかし、この曲は、スポーツの勝ち負けを左右する分岐点となるルールのFAIRさ(例えば、タイムの短いほうが勝ち、など)に焦点を置いていない。コンマ何秒の差、ひりつく戦い、そこに無情にも、しかしFAIRにも、厳粛に聳え立つ「タイム」という結果。そうしたイメージとはむしろ真逆の印象の曲調と歌詞になっている。「時timeのFAIRさ」という点を共通軸にして、上述のシビアな戦いの印象から、みな老いて死ぬ、盛者必衰、という印象へと振っている。ここでは、競技スポーツ選手の年齢的な活躍時期・「消費期限」の短さにも目配せしているし、(勝者と敗者が作られる)この社会に生きる人々一般としても解釈できるようにしてある。

 節の冒頭の問いに戻ろう。曲タイトルの「FAIR」は、スポーツから出発しながらも、勝っても負けてもみな老いて死ぬ、「平等・公平に時は過ぎる」という文脈として解釈できる。

「嘆いても時は男女平等」「喚いても時は怨親平等」(同アルバム収録曲「能動的三分間」より)

 はて、しかし、「時は万人に平等(に過ぎる)」というのは、本当だろうか?確かに、花が咲いて萎んで散るように、果実が熟れて落ちて腐るように、みな不可避に老いて最後は死ぬということや、皆に時間が「同じく」流れている=24時間与えられている、ということは正しいだろう。ただし、「時は万民に平等だ」という命題を無条件に肯定してしまうとき、次の問題が見逃されている。それは、人々の可処分時間の不平等の問題である。自分が自由にできる時間の量、そして過ごす時間の質は、それぞれの人によって異なる。例えば、24時間のうち10時間を身体的苦痛に耐える病者、長時間賃労働をしなければ生きていけない貧者、など。一方で、地位や金に物を言わせて自身のケア労働さえ外部委託して、「充実した時間」を過ごせる金持ちたちがいる。それらは単なる差異ではなく、公正・平等/不公正・不平等の問題と関係している。

 黒城さん当人も、体調の悪さや睡眠、賃労働などの要因を(当然ながら)抱えつつ生きている。「1日24時間じゃ足りない」ということを当人も何度か言っているように、やるべきこと・やりたいことがたくさんある中で、そうした要因に阻まれる=時間を取られることへの焦り・苛立ち・苦悩などの意識が見受けられる。(下記URL以外にも、ツイートや配信での発言を参照せよ。)

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1460760166786236420

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1565143818873491456

睡眠したらその分作業・活動ができないため、睡眠を避けたり(度々の寝落ち)、眠ってしまった自分への自己嫌悪など。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1553273278290350080

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1553274355022725120

また、「食べるのが遅い」「食だけに時間を割くのが時間の無駄な気がしちゃう」などの言及もしている。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1461278919064113157

このように、黒城さんの「時間」に対する意識は、注意を払って着目すべき点であり、そうした黒城ゆう批評を一方でしておきながら、「時は万人に平等」というテーマをそのまま受け入れるわけにはいかない。このまま(の曲解釈)では、黒城ゆうのイメージソングとしてふさわしくないことになってしまう。(当人の哲学に、曲のほうが追いついていない。)

 ここで、本当に万民にとって平等なものは何か、を考えてみる。本当にFAIRなのは、重力・万有引力のような、この地球上の全員が同等に逃れられない物理法則なのではないか?ニュートンの見た果実!再度歌詞を見てみよう。「満ちては引いた潮の所為」「熟れては落下するだけさ」 先の解釈では、花や果実は(必衰の)「時」の象徴であったが、林檎という経由点によって、今度はそれを「重力」の象徴として読み替えることができる。(潮の満ち引きも、地球と月との引力の関係によって起こる現象である。)この曲解釈の転換によって、黒城ゆう(の哲学)との齟齬が(一定程度)回避できる。

 また加えて、盛者必衰のような諦観だけでない、ある種のポジティヴさ(を作り出すことへの可能性)も見出すことができる。「時」のFAIRさの解釈においては、私たちが他者と「等しく」共有できるものは、老いや死への恐怖くらいしかない。(もちろんそれも重要な共有点であるし、その「諦観」(悟り)に対して/を踏まえて、ポジティヴな「答え」を見出すこともできるだろうが。黒城ゆうと死についての批評は、また今後に別稿にて。)一方、「物理法則」のFAIRさの解釈においては、私たちは他者と、否が応でも、マテリアルな「この」現実世界を共有しているのだ、という事実に突き当たる。他者と不可避に共有しているからこそ、他者と〈出会う〉ことができるし、相互行為ができるのだ。それは、ヴァーチャルな存在(Vtuber)という文脈があっても変わらない(あるいはかえって際立つ)。この他者と「等しく」共有する場が重要なのは、それに拠ってこそ、他者という異なる存在とともに、(苦しみや不幸と同様に、)喜びや幸福や美を、作り出したり共有したりすることができるからである。ここに、上述のhome論で述べたのと同様の、「作り出す可能性」が存在している。ゆえに、私は、「何とも思っていない」「何にもしないでいたい」という諦観ではなく、「何とも思っていない」(と言い聞かせる)けども一方で「何にもしないで居たい」(~したい)という願い・望みを持つほうの解釈を採りたいと思う。曲中の「私」は、unfairでありかつFAIRな現実世界の中で、眠らず帰らず、可能性に賭け続けるのだ。

 

3,ヴィジュアル・アート募集中

 はい。募集中です。私自身が絵を専門にしていないので、誰かに描いてほしい(依頼したい)が、絵の界隈に全く無知なので、めぼしい人(依頼相手)を見つけるのにも苦労しています。上記の批評を必ず踏まえて、また下記の雑なイメージも参考に、我こそはと思う人は名乗り出てください。私の検討リストに加えます。

(※ところで、これは当人に歌わせよう・歌動画作らせようという外堀り埋めでなく、一つの作品として、私が欲しいので。)

 

・前提として、黒城ゆうに対して、どちらかというと私は「少年」寄りの解釈。「少年描き」の絵師にお願いしたい。

・夜の街、路上?

・酒を飲んでいる?小瓶を片手に?

・林檎を齧る?

・黒い旗(アナーキー)。のっぺりした着色の黒旗はダサい。身に着けていなくても、建物かどこかに旗が立っていても(掛かっていても)良い。

・植物(花)は入れたい?黒城さんの好きな花、桜。夜桜?桜と林檎の花とは似ている。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1585182627744874496



候補曲その2 Coming later…

 

 

ALSOKサイトのコラム記事への批評

www.alsok.co.jp

 

 ちっぷす@東海(@tips_0724)内での問題提起を受けて、私も自身で批評記事書いてみる。


 まず、コラムという位置づけとはいえ、これが建物防犯の会社の広告の一部であるという点は前提として踏まえておく。つまり、加害者の取り締まりという方向性よりも、被害者の自衛(危機感をあおる)や、加害をしようという意向を防犯によって抑制する、みたいな方向性に重点があるのは、不自然ではない(合理的理由がある)。
(例えば、記事内でリンクが貼ってある小学生向け「ALSOKあんしん教室」の記事は、そこまで問題あるものではない。)https://www.alsok.co.jp/person/tellme/03/

 とはいえ、やはりそこはバランス感が重要で、自衛一辺倒だけでなく、例えば防犯に関連させるにしても、バイスタンダーの話とかを出すこともできるはずだし、そもそも女性たちだけがどうしてこんなに自衛しなければならない(求められる)社会状況なのだろう、ということへの目配せも、何か一文あるかないかでバランス感は大きく変わってくる。

ーーー

アルボ:『これから日没が早くなるので、今後の安全のために“夜道の防犯”抜き打ちチェックをさせていただきマシタ。お姉さん、残念ながら0点デス……。ぼく、ショックデス。』

お姉さん:『抜き打ちチェックー!? なによそれ! ショックなのは私よ!!』

 

アルボ:『抜き打ちチェックの結果、お姉さんはスキだらけデシタ! 猛省! 猛省を促しマスッ。』

 

 あなたどの立ち位置(position/positionality)からそれ言ってるの?という問いは重要で、当人の防犯行動に点数付けて「猛省! 猛省を促しマスッ。」とか言ってるアルボは何?あなたは何のために私を採点してるの?という問いがある。記事内でこの問いの答えは明らかになっていない。(読者の防犯意識を高めるためとかではなく、物語内でアルボがお姉さんを「抜き打ちチェック」する目的。)ここで、物語上、「私があなたを心配になるんだ。私があなたに安全でいて欲しい」とかいうアルボの目的が見えたらまた評価は変わってくる。(ここには、上記の商品宣伝であるという点が関係している。つまり、危機感をあおり防犯意識を高め、うちの商品の購買意欲を誘うという目的を明言しないがゆえに、「私の安全があなた=アルボにどう関係しているっていうの?」という問いは宙ぶらりになっている。)そして、もし、「私があなたを心配だから」みたいな目的であったら、「ぼく、ショックデス。」というニュアンス表現や、「猛省を促す」とかいう強い言葉は使わないのではないかと思う。

 

 興味深いのは「お姉さん」が『抜き打ちチェックー!? なによそれ! ショックなのは私よ!!』と反応している点。つけられて怖い思いした上に、『ショックです』とかいう(訳わからない)こと言われたら、こういう反応が自然・妥当だろう。不審者・加害者かと思ったら、おどけたマスコットキャラだった、という点(ギャップ・落差)にある種の笑い(コメディさ)も見出せるが、「なーんだ、アルボだったのか」という反応ではなく、上記のような反応をあえてさせている点が興味深い。

 こういう「正しい」返答をさせておきながら、このアルボとお姉さんとの「衝突」は解消されないまま物語は進む。アルボに非があるのか(例えば「防犯マニアすぎるがゆえの失礼キャラ」なのか)、あるいはお姉さんの反応のほうがおかしいのか(ショックだったけど後で説明を聞いて納得、というパターンもあり得る)、という(作者の)判断について、記事はメッセージを出していない(解釈できない)。

 

 こういった宙ぶらりんさによって、(場合によっては悪さが指摘できる)アルボの振る舞いの問題点が解消されず・着地せず、ゆえに、読者にとっての納まりの悪さに繋がる。

ーーー

お嬢さん:『わーん、大人になるのコワイよぉ、アルボ~~!』

アルボ:『お嬢さんも油断してはいけまセンよ。小さな子どもをターゲットにする犯罪者も少なくないのデス。』

 ここの女の子の反応も(あえてこうさせているという点が)興味深い。「全体的に20代の被害例が多い」という言を受けて、小学生(中学生?)の「お嬢さん」が「大人になるのが怖い」という自然・真っ当な思いを表明している。これに対して、アルボは「いや、幼い今でも危険なんだ」という過酷な現実を突きつけはするが、解としては「油断するな」と自衛を述べるのみで、その「怖い」社会をどのように彼女らにとってより安全な社会に改善していくか、とかいう言及はしないし、あるいは、過酷な現実の中で、少なくともその恐怖感情を緩和させようと、「私(たち)(=アルソックのスタンスとして)は社会をこういうふうにしたいと思っていて、こういうことに取り組んでいる。あなたも、(望ましい社会に向けて)現状でもこういうことができるよ」といったケア的返答はしない。

ーーー

お姉さん:『あとは、触っている手を捕まえ犯人を特定するのよね。泣き寝入りはダメ!』

 ここはかなり問題。「泣き寝入り」したくてする被害者はいない。それぞれの当人の状況ごとの事情から当人がどう行動するか(できるか)を判断しているのであって、他者が「泣き寝入りはダメ!」みたいなことを言うべきではない。被害者へのこういった指示は、「あなたがされたそれは十分に悪いことである」「あなたのその利益・権利は守られるべきものである」とかいうこととは別の主張になっている。

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 記事内で「年末年始」とか書いてあり、「更新日:2014.11.05」と書いてあるが、統計データはこれ以降のを使っているので、これは多分最初の投稿日で、データ部分だけ更新しているのだろう。(最終更新日は不明。)

 まあ、8年経てば、こういう記事に対する(女性への性犯罪や「自衛」をめぐる)世間の価値観の潮流も多少は変わってくるし、自社メディアを見直す良い機会なのでは。

 もし有志でアルソックへ改善要望したりするなら、普通に意義あると思う。

 

追記:ちっぷす@東海で動きます。関心ある人は私にご連絡ください。

島袋(2020)へのコメント

島袋海理,2020,「性的マイノリティに対する文部科学省の支援策の論理:性別違和と同性愛の相違点に着目して」『ジェンダー研究』お茶の水女子大学ジェンダー研究所,23: 165-83.

 

コメント

 

 165頁註1、「性別違和」の定義。「自身の身体」という要素を定義文に入れたのはどういう理由があるのだろうか。単に「割り当てられた性別」への違和感というだけの定義ではダメということだよね?割り当てられた性別には違和感はないけれど、身体には違和感がある、という場合を想定するということか。身体違和を割り当て性別違和と(論理上)直結させないことに意味があるのかもしれない。ただ、例えば性器など以外の身体部分に対して違和感があるという場合も過大包摂してしまうのではないかという懸念はあるが。(そういう人が実際にいるかは分からないが。※)

 ※追記:Body Integrity Identity Disorder(BIID)、Body integrity dysphoria(BID)というのがあるっぽいけど、あんまりエビデンス蓄積してないな。性別違和と関連して語られることがあるみたいだが、トランスジェンダーフォビックな関連付け方もあり得るので要注意。

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 小山静子の参照部分(167頁)、おそらく小山の言葉遣いをそのまま使っているのだと思うが、男女の恋愛・性愛関係を指して「男女の関係」と言うのはあまり良くない。今回の場合は、文脈から恋愛・性愛に限った話だと分かっているから、明らかな誤記とは言えないが。

 戦後から現在に至るまでの純潔教育性教育において、同性愛がどのように扱われてきたか、というのはとても重要な研究テーマだよね。歴史学者・史料研究者とも連携してやっていく必要がある。また、現在の教育現場の性教育の調査も必要。(学校保健委員会の資料分析とか面白くね?と個人的に思っているのだが。もう誰かやってる?)

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 「通知と周知資料とでは厳密にいえば異なる性質を持つが、先行研究では性質の違いを念頭に置いた分析はされていない。本研究もこれに則り、これら資料の性質の違いを考慮せずに分析する。」(170頁)

 「先行研究でやってないからそれに則ります」だけではダメで、それだとこの部分を書く意味もない。「厳密に言えば異なる性質を持つけど、私が今回したい分析(の目的)においてはそれを考慮する必要がない(考慮してもあまり分析に差異・影響がない)から、考慮しません」とか、「先行研究に合わせることで本研究と先行研究とで比較できるようにしたいから則ります」とかなら分かる。

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 4章1節1項と2項は、それぞれはとてもシャープな分析なのだが、1項の「”他の児童・生徒への配慮”という観点」と、2項の「個別的支援」(=すべての児童・生徒を巻き込んだジェンダー・フリー対応の忌避)の関係性についての記述が引っかかる。

 「この”他の生徒・児童への配慮”という観点が、一連の支援事例を当該児童・生徒に対する個別的な支援へと水路づける論理となっているのではないか。……ここに、”一連の支援事例を決定する際には、他の児童・生徒への配慮と均衡を取らなければならない”という論理が成立している。」(174頁)

 1項で言う「他の児童・生徒への配慮」とは、表1を見る限り、更衣室、トイレ、宿泊部屋など、具体的に他の児童・生徒が何らかの不利益をうけるようなものを指しているように見える。(その不利益をどう概念化するかは別途重要な点だが。子ども個人の性的羞恥心だとか?)一方で、2項の分析事例では、他の児童・生徒への配慮のためというよりも、まさにジェンダー・フリーを忌避し、ジェンダー二元コードを保持・再生産したい行政管理側の意向が反映されているように見える。1項と2項の分析を関係づけるときに、「他の児童・生徒への配慮」という観点でまとめてしまうのは、雑・無理やりな気がする。あるいはむしろ、1項での「他の児童・生徒への配慮」という点も、子ども個人の不利益のためではなく、ジェンダー/セクシュアル秩序を守るという行政管理側の意向のせいだ、という方向でのまとめ方のほうが私にはまだもっともらしく感じる。

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 「医師の診断を必須としていないにもかかわらず、なお医療化概念である”性同一性障害”が一貫して採用されているのはなぜだろうか。」(175頁)

 ”医療化の効用”として、性別違和を持つ子供たちの受容や「免責」があるから、という理由は妥当だと思う。そしてそれを前提とした上で、行政管理側の都合としては、以下のような線引き問題を表面化させないために、医療化概念を残存させているという理由もあるのでは。「わがまま」を認めるのとは違うという体裁を保つために、病名を使い続ける。

 医学的診断を必須基準にしなくなったことによって、子どもたちのうち、誰を叱り・指導し、誰を支援すればよいのか、という線引きの問題が新たに発生しているのではないか。同じような「問題行動」をしている子どもでも、「発達障碍」「性同一性障碍」という概念枠組みで認識されれば免責され支援され、そうでなければ指導される、という。そうした「本人のニーズ主張の語りだけでは区別がつきません」という教員の悩み・戸惑いは、教育現場への研修・講演などをしている人々(遠藤まめたさんとか、ASTAとか)に調査してみると結構出てくるのではと思う。

 上記のような行政管理側の都合という視点を踏まえると、6章の考察部分(179頁)は同意しかねる。もちろん、文部科学省に教育現場での支援を進めるという意向・期待があったかもしれないが、その指摘がそれまでの分析から導出できるのか、というと、できないのではと思う。また、文科省を善意的に見すぎではないか。一般に政治行政組織の振る舞いというのは、複数の層の意図があると想定したほうが妥当であり、「文部科学省による教育的配慮」(175頁)以外には何か意向がないのか、という点は検討する価値があると思う。

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 178頁、2017年報告書の引用では「個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導」となっているところを、それを受けた地の文では「他の児童・生徒」としている点が気になる。私は、「個々の子どもごとに発達段階は異なるのだから、性的マイノリティみたいな”上級編”を同時一斉に学習指導するのはいかがなものか」という意味に解釈した。ここには、性的マイノリティ当事者以外の「他の」子どもを引き合いに出しているというより、たとえ当事者であってもそれを(肯定・容認的に)学習指導させたくないという考えがあるのでは。(まだ早い、まだ確定させたくない、子ども時期だったらまだ「正常な側」に転向できるのでは、など。)

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 「”同性愛”の指導内容への組み込みをめぐる議論において文部科学省は、……『性的マイノリティ』あるいは『LGBT』の問題という表現を採用している。したがって、ここでは文部科学省が『性的マイノリティ』『LGBT』という表現を、同性愛以外のカテゴリーを含んだ包括的な意味で使っていないと考えるのが妥当だろう。」(178-179頁)

 同意できない。あるいは記述不足である。同性愛(者)について言及する際になぜ「性的マイノリティ」「LGBT」という包括的な語を使っているのか、について筆者(島袋さん)が説明しなければ、文字通りの意味として解釈する(LGBT全体について言及していると読む)のが通常だろう。

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 2017年答弁記録における「LGBTに対する科学的知見」とはどういうものか、ということを分析・解釈せずに、ここで言われている科学的知見とは医療的な知見のことだとか、文部科学省が「同性愛の問題を医療化の論理にもとづいて検討している」(179頁)とかを述べることはできないと思う。様々な科学的知見が医療化の論理に利用されてきたのは事実だが、医療以外にも科学的知見はあり得るので。

 そことの関連で、6章の考察部分(180頁)もあまりピンと来なかった。まあでも筆者自身もその後に補論書いてるみたいだし。https://twitter.com/KairiShimabukur/status/1336649934745944066

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 「性的マイノリティは一つのカテゴリーのようにみえるが、そのなかには医療化の論理を適用しうるカテゴリー群(性別違和など)と脱医療化したカテゴリー群(同性愛など)が併存している。」(180頁)

 この「医療化の論理を適用しうるカテゴリー群」と「脱医療化したカテゴリー群」の対置はよく分からない。(性別違和と同性愛とで、現時点では医療化されている程度が異なるよね、という指摘なら分かるが。)同性愛など脱医療化したカテゴリーも、医療化の論理を「適用しうる」だろう。同性愛について、「もう既に脱医療化した」という認識よりも、「今の時点で医療化を免れている」という認識のほうが私はしっくりくる。将来、医学的・科学的発見が新たにあったりして言説状況が変われば、再医療化することも十分あり得るだろうと私は思っている。(ConradとSchneiderによる、同性愛を「治療」できる医学的手法が当時に発見されていたら脱医療化できなかっただろう、という指摘に私は同意する。)そのように、「医療化と脱医療化の力関係」(180頁)は、常に医療化しようとする力学と、当事者側のそれに抵抗したり迎合したりする力学との、常に変動する力関係(緊張/協力関係)を細やかに丁寧に見ていかないといけないと思う。

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 同性愛への「支援」策という視点だけでは見えなくなるもの。

 府中青年の家事件の「男女別室ルール」の論理から現在にまで続く、ジェンダーセクシュアリティ秩序についての規範・管理の問題は欠けてはならないだろう。異性愛・男女二元制を基盤としたこの秩序における同性愛の抹消・排除。トランスフォビア言説とも繋がる。

 つまり、トランスジェンダー支援策に関して(個別支援によって)男女二元制を保持することで、異性愛主義も保持され、また、(異性愛主義を解体するような施策の不在によって)異性愛主義を保持することで、男女二元制も保持される、という相互関係。

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全体の感想

 批判点ばかり書いたが、アーカイブ公開が消えてたりする資料も含めきちんと読んで分析する、というのは重要。参考文献も、私の知らないものがたくさんあったし、勉強になった。発達障碍とか視覚障碍とか部落とか、他のマイノリティについての研究(しかも子ども・学校教育の領域の研究)をきちんと見渡しているというのはとても良い。