黒城ゆう  イメージソングについての草記

候補曲その1 東京事変「FAIR」

 

何とも思っていない!」(太めのペンでの手書きの文字)

 

1,歌詞との関連

・黒城さん当人の年齢(12歳(設定))から、歌詞内の子供と大人の対比。その間(あわい)の少年期ももちろん目配せしているが、どちらかというと当人を「子供」枠に入れて歌詞解釈。

 

・イメージカラーの黒→闇。活動内容(寝かしつけ配信)→夜(夜更かし)。のイメージ。「月のない夜は長引くぞ 明けるまで」

 

・サビ「何とも思って居ない 眠らないのも私の勝手」 自分の人生/生活lifeの自決権を強気に謳いながらも、眠らない/眠れないことの持つ意味の暗さも示唆。(眠らない/眠れないことの理由や、眠らない/眠れないことの自傷性も含めて。)そうした暗さを背景にしておきながら、しかし傍若無人に「I don’t care.」と言って見せる。椎名林檎の歌い方を聴くに、軽く笑い飛ばすというよりも、そう言って吹き飛ばそうとする(自分にも言い聞かせる)ような感じもちょっとあるという解釈。まあここは好みによる。

 

・「酔いを醒ましたら」 当人の飲酒癖。服装も貴族っぽさのためワイングラスが似合いそうな。https://twitter.com/Andy_Melusine/status/1611739569619099649

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1611742423428005893

でも後述のhomeとの関連で、路上で瓶ごとでも良い。

 

・「何にもしないで居たい 帰らないのも私の勝手」 家に帰らないということは、ここでは単に帰宅しない(眠らない)ということだけではなく、home概念との関係性(距離感)を表している。一つには、貴族の実家(や家制度)から離脱する(離縁している)ということ。また、自分が安らげるような居場所homeを見つけあぐねているということ。つまり、ヘテロセクシズムのつくり上げるhome像ではしっくり来ず、そこから距離を取り、むしろ路上など他者との出会いの場(開かれ・曝されの空間)に留まる、という。その過程において、「スラム街(設定)」の路上を生きる彼ら/我らはhomelessであるが、homeから排除されたまま(ないしあえてそこに残ったまま)生き続けるというあり方とは別に/と同時に、その他者たちと(カップル主義的ではない)自分のhomeを新たに作っていく、というあり方も視野に入れることができる。これを踏まえると、「何にもしないで居たい」という言葉が(単なる無気力ではなく)さらに解釈できる。つまり、賃労働など、生産性で自分の価値を値踏み・値付けされたり、プライベート交遊関係で自分の存在価値をアピールしたりしなくても良い、「何にもしないで居られる」こと・場を欲している、と。で、それってhomeじゃん、と。

 

 ちなみに、「FAIR」がアルバム「スポーツ」に入っているという点もまた良い。当人のスポーティ&ストイックなイメージ。

 

2,FAIRさを、林檎を経由して、時間から重力に読み替える。

 まず曲の批評から入ろう。曲タイトルの「FAIR」をどう解釈できるか。

「疵痕ごと腐敗した残像 熟れては落下するだけさ」

「過ぎては去った時の所為」

「追い分け引き分け 兵(つわもの)または逃げ腰の残党 咲いて萎んで花と散って」

 追い分け(道の分岐点、岐路)において勝者と敗者に分かれる。しかし歌詞全体の感じや上記の引用部分を見るに、勝者になれば良い(嬉しい)という文脈ではなさそう。むしろ、勝者も敗者も、時が経てば、熟れて落下し腐敗するだけだ、という「盛者必衰」(「丸の内サディ」)的な読解ができる。

 ここで、この曲がアルバム「スポーツ」に収録されているということに着目する。(アルバムジャケットの金メダルを見るに、特に競技スポーツ。また、ブックレットでも「競技」の漢字2字が当てられている。)スポーツにはルールや評価基準があり、スポーツとFAIR(公正・公平)概念は密接に関係してくる。しかし、この曲は、スポーツの勝ち負けを左右する分岐点となるルールのFAIRさ(例えば、タイムの短いほうが勝ち、など)に焦点を置いていない。コンマ何秒の差、ひりつく戦い、そこに無情にも、しかしFAIRにも、厳粛に聳え立つ「タイム」という結果。そうしたイメージとはむしろ真逆の印象の曲調と歌詞になっている。「時timeのFAIRさ」という点を共通軸にして、上述のシビアな戦いの印象から、みな老いて死ぬ、盛者必衰、という印象へと振っている。ここでは、競技スポーツ選手の年齢的な活躍時期・「消費期限」の短さにも目配せしているし、(勝者と敗者が作られる)この社会に生きる人々一般としても解釈できるようにしてある。

 節の冒頭の問いに戻ろう。曲タイトルの「FAIR」は、スポーツから出発しながらも、勝っても負けてもみな老いて死ぬ、「平等・公平に時は過ぎる」という文脈として解釈できる。

「嘆いても時は男女平等」「喚いても時は怨親平等」(同アルバム収録曲「能動的三分間」より)

 はて、しかし、「時は万人に平等(に過ぎる)」というのは、本当だろうか?確かに、花が咲いて萎んで散るように、果実が熟れて落ちて腐るように、みな不可避に老いて最後は死ぬということや、皆に時間が「同じく」流れている=24時間与えられている、ということは正しいだろう。ただし、「時は万民に平等だ」という命題を無条件に肯定してしまうとき、次の問題が見逃されている。それは、人々の可処分時間の不平等の問題である。自分が自由にできる時間の量、そして過ごす時間の質は、それぞれの人によって異なる。例えば、24時間のうち10時間を身体的苦痛に耐える病者、長時間賃労働をしなければ生きていけない貧者、など。一方で、地位や金に物を言わせて自身のケア労働さえ外部委託して、「充実した時間」を過ごせる金持ちたちがいる。それらは単なる差異ではなく、公正・平等/不公正・不平等の問題と関係している。

 黒城さん当人も、体調の悪さや睡眠、賃労働などの要因を(当然ながら)抱えつつ生きている。「1日24時間じゃ足りない」ということを当人も何度か言っているように、やるべきこと・やりたいことがたくさんある中で、そうした要因に阻まれる=時間を取られることへの焦り・苛立ち・苦悩などの意識が見受けられる。(下記URL以外にも、ツイートや配信での発言を参照せよ。)

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1460760166786236420

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1565143818873491456

睡眠したらその分作業・活動ができないため、睡眠を避けたり(度々の寝落ち)、眠ってしまった自分への自己嫌悪など。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1553273278290350080

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1553274355022725120

また、「食べるのが遅い」「食だけに時間を割くのが時間の無駄な気がしちゃう」などの言及もしている。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1461278919064113157

このように、黒城さんの「時間」に対する意識は、注意を払って着目すべき点であり、そうした黒城ゆう批評を一方でしておきながら、「時は万人に平等」というテーマをそのまま受け入れるわけにはいかない。このまま(の曲解釈)では、黒城ゆうのイメージソングとしてふさわしくないことになってしまう。(当人の哲学に、曲のほうが追いついていない。)

 ここで、本当に万民にとって平等なものは何か、を考えてみる。本当にFAIRなのは、重力・万有引力のような、この地球上の全員が同等に逃れられない物理法則なのではないか?ニュートンの見た果実!再度歌詞を見てみよう。「満ちては引いた潮の所為」「熟れては落下するだけさ」 先の解釈では、花や果実は(必衰の)「時」の象徴であったが、林檎という経由点によって、今度はそれを「重力」の象徴として読み替えることができる。(潮の満ち引きも、地球と月との引力の関係によって起こる現象である。)この曲解釈の転換によって、黒城ゆう(の哲学)との齟齬が(一定程度)回避できる。

 また加えて、盛者必衰のような諦観だけでない、ある種のポジティヴさ(を作り出すことへの可能性)も見出すことができる。「時」のFAIRさの解釈においては、私たちが他者と「等しく」共有できるものは、老いや死への恐怖くらいしかない。(もちろんそれも重要な共有点であるし、その「諦観」(悟り)に対して/を踏まえて、ポジティヴな「答え」を見出すこともできるだろうが。黒城ゆうと死についての批評は、また今後に別稿にて。)一方、「物理法則」のFAIRさの解釈においては、私たちは他者と、否が応でも、マテリアルな「この」現実世界を共有しているのだ、という事実に突き当たる。他者と不可避に共有しているからこそ、他者と〈出会う〉ことができるし、相互行為ができるのだ。それは、ヴァーチャルな存在(Vtuber)という文脈があっても変わらない(あるいはかえって際立つ)。この他者と「等しく」共有する場が重要なのは、それに拠ってこそ、他者という異なる存在とともに、(苦しみや不幸と同様に、)喜びや幸福や美を、作り出したり共有したりすることができるからである。ここに、上述のhome論で述べたのと同様の、「作り出す可能性」が存在している。ゆえに、私は、「何とも思っていない」「何にもしないでいたい」という諦観ではなく、「何とも思っていない」(と言い聞かせる)けども一方で「何にもしないで居たい」(~したい)という願い・望みを持つほうの解釈を採りたいと思う。曲中の「私」は、unfairでありかつFAIRな現実世界の中で、眠らず帰らず、可能性に賭け続けるのだ。

 

3,ヴィジュアル・アート募集中

 はい。募集中です。私自身が絵を専門にしていないので、誰かに描いてほしい(依頼したい)が、絵の界隈に全く無知なので、めぼしい人(依頼相手)を見つけるのにも苦労しています。上記の批評を必ず踏まえて、また下記の雑なイメージも参考に、我こそはと思う人は名乗り出てください。私の検討リストに加えます。

(※ところで、これは当人に歌わせよう・歌動画作らせようという外堀り埋めでなく、一つの作品として、私が欲しいので。)

 

・前提として、黒城ゆうに対して、どちらかというと私は「少年」寄りの解釈。「少年描き」の絵師にお願いしたい。

・夜の街、路上?

・酒を飲んでいる?小瓶を片手に?

・林檎を齧る?

・黒い旗(アナーキー)。のっぺりした着色の黒旗はダサい。身に着けていなくても、建物かどこかに旗が立っていても(掛かっていても)良い。

・植物(花)は入れたい?黒城さんの好きな花、桜。夜桜?桜と林檎の花とは似ている。

https://twitter.com/kurokiyusm/status/1585182627744874496



候補曲その2 Coming later…