マサキチトセ「お詫びとご報告」 批評

 

https://twitter.com/MasakiChitose/status/1575559616930664449

https://ja.gimmeaqueereye.org/apology-to-a

 

※本文に入る前の注釈。

 マサキチトセさんの声明公開時点、つまり、けむしのこの記事の執筆開始時から、記事公開まで、一年ほど掛けている。記事の内容のほとんどは数週間で書き上げているが、加筆修正含め公開に至るまでにかなり期間が空いているということを承知願いたい。それゆえに、その間にマサキチトセさんは改名し現「瀬戸マサキ」になっているし、ツイッターも退会している*ので上記ツイートURLはリンク切れになっている。また以下本文中の自衛隊内の性加害問題についても、当時の報道状況文脈においてである、と考慮して読んでほしい。
 (*訂正追記。退会ではなく鍵アカになって使用停止しているようだ。*12/6再追記。鍵を開けて利用再開しているが、いつからか不明。)

けむしのコメント

『今後の私の執筆および講演活動に関しては、A氏との間で、私が何らかの声明文を公表した上で継続するという条件に合意いたしました。』
 この部分、加害者の社会活動や営利労働一般について被害者(だけ)が継続/中断云々を要望・審理できる、みたいな読み方だと私は引っかかるが、多分そうではなくて、マサキチトセさんの活動の内容上(権利や自律や加害について取り扱う)、オーディエンスないしステークホルダーに何も公表せずに続けるのはどうなの、という問いがあって、こういう「合意」が出てきたのだろうと(も)読める。そしてその問いは、別に被害者でなくても(その事実を知る第三者でも)問題提起できることだと私は思う。(被害情報に言及することになるので、当然被害者の意思・了承は関係してくるが。)

 

 そして、『そうしたA氏の寛大な申し出に感謝し、』というのが引っかかるなあ。
 「寛大な」ということは、「普通の」ないし「より厳しい」状態がどこかに想定されているはずである。例えば、「本来はより厳しい『条件』であるはず/が一般的であるのに、」とか「本来はより厳しい『条件』であるべき(と加害者自身も思う)なのに、」といった想定である。
 今回のような件で言えば、例えば、加害を一つでもした人は人権についての啓発的・教育的活動をする資格があるのか/ないのか、という問いはまああり得て、Aさんが「私は被害者の個人的な思いとして活動を続けてほしくない」とか、あるいは被害者としてでなく一般的に(倫理的に)「活動を続けるべきでない」という意向を出すことはあり得る。で、そのような「より厳しい」意向がはたして一般的と想定できるか、というと、よく分からん(YESとは言えないと私は思う)。現在の世論的には意見が分かれるのではないかと思うし、べき論から言っても、被害者の思いとしてはともかく、倫理的問いの結論としては、私の採る思想的スタンスからすれば、厳しすぎる(正義の実現/不正義の減滅に向けてかえって逆効果になる)と私は思う。
 また、「本来はより厳しいはず」という想定が一般的にできなくても、「本来はより厳しくあるべきである」と加害者一人だけでも思っていれば、「寛大」という評は成立し得る。ただ、ここで一つの問いが生じる。なぜ「べきである」と自身で思っておきながら、そのような『寛大な申し出』に乗ったのか、という点である。これへの答えは様々に考えられる。人間の様々な信念ないし生活の様々な利害があるなかで、「より厳しいこの条件が妥当だ」と一方で思いつつも、相手の『寛大な申し出』を受ける、ということは不自然でなくあり得る。(そのような「矛盾・葛藤」自体が不自然でない。)そして、その答えのなかには、正当な(問題のない・責める点のない)答えもあるだろう。
 または、次のような場合もあり得る。例えば、被害者が「できれば活動をやめてほしい」と望むが、加害者が「できれば続けたい」と望み、そして和解プロセスにおいて被害者が「まあいいよ」と承諾した場合など。このとき、「寛大な」という評が成立するための「より厳しい状態」というのは、被害者の最初の意向のことである。そこを参照して、「本来はそうであるはず」「本来はそうであるべき(被害者の意向に沿うべき)」という想定が成立する。この場合、「寛大な」という評は、被害者の最終的合意内容だけにかかるのではなく、譲歩・承諾という振る舞いのほうにもかかる。しかし、その場合の振る舞いを「申し出」とは言わないだろう。(加害者の出した意向に同意したという形なのだから。)ゆえに、上のような場合は今回の件では当てはまらない(除外して考えて良い)だろう。
 さて、上記で、「寛大な」という評がそもそも成立するかどうか(どういう場合に成立するか)をみてきた。私が引っかかっているのは、「(被害者の)寛大な~に感謝し、」という文言を加害者のステイトメントで使うことが、うーんどうなんやろうか、ちょっと問題あるんやないかという違和感である。そうした文言を使うことを正当化できる場合があるかどうかの検討の前段階として、上記で場合分けを整理したつもりである。
 被害者の意向に対して「寛大な」のような形容詞を付けることは、被害者の意向一般について、「寛大/そうでない」みたいな価値尺度を持ち込んでしまうことになりはしないだろうか。ある被害者の特定の意向を「寛大な」と形容することで、他の被害者の意向(あるいは被害者の他のあり得た意向)を「寛大でない」と見なすことに協力してしまうのではないか。私は、被害者の意向というのはそういうものではなく、それぞれの被害者がしたいこと・してほしいこと/したくないこと・してほしくないことをただ望むだけ、という感じに捉えているのだが。そして、被害者の意向一般について「寛大/そうでない」という価値尺度が持ち込まれることは、被害者(の意向)へのjudgingという点に関して、弊害を招くのではないか。今現在の社会の加害/被害言説において、加害者擁護/被害者非難victim blamingの風向きの中で、「厳しすぎる」「いき過ぎ」といった評価のほうが(まだ)多いと私は見ている。加害/被害対応の評価の際に、「甘い/そうでない」という価値尺度よりも、「寛大である/そうでない」という価値尺度のほうがしばしば使われているのではないか。今現在の(日本の)私たちの社会においては、「甘く」してはならないという価値よりも、「寛大」であるほうが良いという価値のほうが優勢なのではないか。
 ※自衛隊で性加害を受けた五ノ井さんの振る舞い(特に、彼女が加害者の実名を公表しないこと)についての世論もこのとき見聞きしていたので、タイミング的に私の思考にちょっと影響しているかも。

 今回の件の和解プロセスの実態は第三者にはよく分からない。詳細に公に明らかにするべきとも思わない。ただ、上記のような懸念に基づいた批判提起をしておき、かつ、その批判的検討(そうした文言を使うことを正当化できる場合があるかどうかの検討)が人々によってなされることは、意義があることだと私は思う。そうした批判において、第三者でしかない者が事例に対してある程度の推測を含めあれこれ述べること(私が上でやったようなこと)は、ある種の問題性を含みつつも、一定程度までは正当化できるだろうと私は思う。そしてもちろん、その批判的検討の射程は、今回の事例に限ってではなく、加害/被害問題一般に対して意義を持つのである。
 マサキチトセさん当人としては『私からは、この文書に書いた範囲の情報を除き、今後この件に関して公に発信することはありません。』と述べているし、この批判提起に対して返答がなくても、まあいいかと思っている(「応答責任」として、必ずしも返答するべきだとは思っていない)。個別事例の「検討」に対して具体詳細に応答しようとすれば事例のないし和解プロセスの詳細情報に触れざるを得ないが、当人(たち)がそれを望まないだろうし、第三者としても、そのような詳細な応答がされなくとも、上記の問題提起から人々の熟議が始まることで十分意義があると私は思うので。まあ、詳細情報を避けて何かしらコメントを返答することは不可能ではないかもしれないが、マサキチトセさんのような有名な活動者には、アンチも色々付く(既に付いている)だろうし、こういうことを材料にしてアンチが不当な動きを活発化させることを、私は望んでいない。当人にとってうまい具合にやってくれればと思う。(もちろん、批判提起を受けて、考えては欲しい。あくまで表での動きについてはということ。)

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 あと、マサキチトセさん(ほどの人)もフォーマルな文脈では「~氏」を使うのか、という発見。けむしは「氏」を使う違和感から、使用を辞めている。以下参照。

https://scrapbox.io/kemushi/%EF%BD%9E%E6%B0%8F

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 ところで、『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現があまり見慣れないので「ん?」と思う読者もいるかもしれない。そして、その言葉(でその行為を意味づけ・フレーミングすること)が妥当かどうかというのは、一般論として(今回の事例に限らず)常に問われることなのだが、ここでそれについて考えてみよう。
 例えば、「身体自律性の尊重に反する身体接触行為」のなかには、「性加害・性暴力」もあり得る。しかし、私はこの『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現が(つまり、「性加害」などと書かなかったことが)、妥当である(問題がない)と考える。というのは、「臀部に触れる」ということが、必ずしも「性的な」ことではない、そして、その行為を常に「性的なこと」に限定・還元することが、身体自由・身体自律を希求する運動の前進にとって望ましくない、と私は思うので。

 このことは、次の「論点」に【関係してしまっているが、それとは別のこと】である。
 どういうことか説明しよう。
 Aさんは『性的な行為を拒否した』とあり、マサキさんがその意思に反し・を無視して、つまり臀部を触れる行為を性的なものと見なしておこなったのか、あるいは、意思は尊重して、つまり臀部を触れる行為は、拒否された「性的な行為」にあたらないという認識で(スキンシップとして?)おこなったのか、という点は、私たち第三者が現在得られる情報からは解釈の幅・余地がある。※もちろんけむしも、現在の社会的認識として臀部が「プライベート部位」に含まれることは同意するが、臀部に触れるのが常に性的であるという意味固定化的考えは妥当でないかつ望ましくないし、マサキさんとAさんとの関係性(の中身)や、Aさんが具体的にどんな文言で「性的な行為を拒否した」のか(どんな実際の発言をマサキさんがそう表現記述したのか)が(読者の私たちには)不明であるがゆえに、後者の場合が現実に成立する可能性はあると考える。
 なおちなみに、前者後者どちらの場合にせよ、触れる前に聞いてみる・意思を確認するなど、より望ましい振る舞いはあり得たのだから、『彼の意思を軽んじて』・『尊重に欠けるものであった』といった表現は、(後者の場合でも)妥当なものになっていると思う。
 話を戻して、(複数の注釈は付けつつになるだろうが、)行為者の身体的振る舞いとしては同じことをしていても、後者よりも前者のほうがより悪い、と言ってよいだろう。
 ここで、臀部を触れる行為は必ずしも性的ではない、という(それ自体妥当な)主張は、上記の前者後者の悪さの論点に関係し、「だから『本当は・実際は』後者なんだよね、だから行為者の悪さは減るよね」という主張に利用される(機能を果たす)ことがあり得る。
 しかし、上記のけむしの「私はこの『身体自律性の尊重に欠く行為』という表現が妥当であると考える。」という主張とその根拠記述は、そのような、加害者の悪さの評価を減免しようという主張ではない。「【関係してしまっているが、それとは別のこと】である」、と述べたのはそういう意味である。
 けむしの記述の、意に反する機能効果を最小限にするために、「細かい」点についてではあるが、長々と補足説明をした。

 表現の妥当性の話に戻そう。 
 また、もし、「身体自律性の侵害」と「性加害」とで、「性加害」のほうがより悪い・重いことのようにあなたのなかで響く(聞こえる)としたら、そしてそうであるがゆえに、謝罪声明文で「性加害」のほうを使うべきだと批判するのだとしたら、その批判は妥当ではない。
 なぜなら、1,上述したように、まず前提として、「身体自律性の侵害」概念のなかに「性加害」概念が包含されている、という関係である*から。2,性的な加害・性暴力と、性的ではない身体自由・自律の侵害とで、どちらがより悪い・重いなどとは一概には言えないから。そうした判断をするためには、個別具体的にそれぞれの事例を比較検討する必要がある。
 (*訂正追記。厳密に言えば、身体が関係しない性的加害というものはある。(言葉によるセクシャル・ハラスメントなど。)したがって、「性加害・性暴力」概念が完全に包含されているということではない。今回の事例が身体的接触のことなので、ついこう書いてしまった。ここでの議論文脈にはあまり影響はないと思うが、この追記にて補足訂正する。)

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 最後に、ステイトメントを、特に謝罪を批評することについて。

 (誠実な)謝罪というものは〈祈り〉に似ていると私は思う。〈祈り〉には、祈る者それぞれの自身にとっての「ほんとうさ」だけがあるのであり、原則としては、その「わたしにとって」さ、(だけ)が重要だと私は思っている。そして、祈りと同じく謝罪においても、それを他者(第三者)が「批評」する、ということにある種の傲慢さ(越権さ)があるかもしれない、という指摘はしておきたい。しかし一方で、〈祈り〉の「ほんとうさ」の批評が社会の中で起こることは、〈信仰者〉がより良い(と自身が信じる)〈祈り方〉に改良していったり、〈祈り〉の「ほんとうさ」が研ぎ澄まされていったり、という点で、意義があると思う。(私はむしろそうした批評を奨励しているところもあるかもしれない。)
 そうした〈信仰者〉たる「わたし」(たち)にとって、という側面だけでなく、それと同時に、公共社会に発信された謝罪ステイトメント(つまり、謝罪の中でも、社会問題や社会的利害に関わるもの)を私たち=公共社会が批評する、ということは、意義がある・必要だし、今の社会に足りていないと私は思っている。これは、謝罪に限らず、信念を含むあらゆるステイトメントに言えるだろうし、行政や企業やNPOだけでなく、(その内容の公共性をもって、)団体・個人の区別を問わないだろうと考えている。
 このステイトメント批評活動の構想と取り組みについて、より関心のある人はこちらへ。(まだ建設中でほとんど中身はまだないが。)

https://scrapbox.io/futari-ten/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E6%89%B9%E8%A9%95
 被害者である相手から加害者である自分へ何かしらを伝えられた時に、心底の安堵とか「寛大」とか思うことは実際にあるだろう。(自身の何かしらの「過ち」経験を思い出してみよ!あのやっと息ができる感じ。)そうした感情を実際に感じること自体を否定(やめろと要求)しても意味がないと思う。ただ、1,その気持ちの動きに乗じて筆が滑ってしまい、「ほんとうの言葉」ではない「寛大な」という(世間にあふれている)言葉を謝罪文に書いてしまったのではないか、あるいは、2,本当に「寛大」と思ったのだとしたら、そこから、その背後・基礎にあるものについて考え始めることができる。
 謝罪というものが(私にとって)ある種特別な位置にあるからこそ、みんなには、上の1,2について考えた上で、気を引き締めて書いてほしい。それには、物書き(を自認する「私たち」)が大金を貰って書く原稿とはまた違った(もしかしたらそれ以上に段違いの)気の引き締めが必要かもしれない。